病気をうつすことは「罪」なのか?【哲学者・仲正昌樹論考②】
■「感染を罪悪視すること」と「プライベートに干渉すること」
私の務める金沢大学の国際基幹教育院(教養部)では、東京、大阪、愛知、静岡など、感染拡大地域を訪問した学生は、二週間の登校“自粛“を強制される。陽性反応者の濃厚接触者ではなく、本人に典型的なコロナの症状が出ていない、としてもである。対面での試験を受ける予定であれば、当然受けられなくなり、教員は代替措置を講じなければならない。
私もそういう面倒なケースに遭遇した。“自粛“強制を決定した教育院は、それが学生のためだという建前を取っているが、学生の為を本当に思っているのなら、どうして自粛を強制する前に、大学病院でPCR検査を受けさせ、安心させてやろうとしないのか? 教育院の院長は医師・医学研究者である。感染地に行けば、とにかく二週間隔離というのは、まるで「禊ぎ」だ。実際には、感染が起こった時に責任を取りたくないし、検査のための金もかけたくないだけなのだろうが、問答無用で、隔離の儀式への参加を強制されると、「禊ぎ」をやっているような気になる。
問題は、本人の行動や体調との因果関係と関係なく、感染を罪悪視するだけに留まらない。七月に入って家庭内感染が拡がっていると伝えられるようになってから、知事たちが家庭内でも距離を取って欲しいと要請し、マスコミもそれをあまり疑問視することなく報道するようになった。
これは、プライベートな領域への政治的干渉である。無論、深刻なDVや児童虐待のような、犯罪に相当する場合は、プライベートな領域であっても公権力は干渉する。ミル的な自由主義者も、そうした干渉は他者危害原理違反とは言わないだろう。
しかし、感染の危険があるからといって、家の中での“正しい振る舞い方“を政治的に指導するというのは、どうだろうか。感染しないよう、家族や恋人とも距離を取るべきというのを厳密に取れば、物心がつかない乳幼児の体に触れてはならないし、セックスなどもっての他、ということになるだろう。
ペストや結核、エボラ出血熱のように、感染したらはっきりした症状が出て、高い確率で亡くなる感染症であれば、緊急性があるゆえの例外と認めてよいかもしれないが、風邪やインフルエンザで、いちいちプライベートに介入するとすれば異様である。自己決定の領域はなくなってしまう。知事や専門家がそうすべきだと言えば、そうした「自由」の本質に関わる問題についていったん立ち止まって考えることなく、あっさり受けいれる人が増えている。それは、フロムが警告を発していた状況、生に対する不安ゆえの、自由からの逃走ではないか。